真言宗智山派来振寺は山号を寳雲山と号し、霊亀元年(七一五)行基菩薩により法相宗真福寺として開山された。神亀二年(七二五)六月十八日、寺の裏山である白山に黄金色の雪が降り積もり(黄金色の雪は加賀の白山権現菊理媛神天下る)、これを伝え効いた聖武天皇の勅号により来振寺と改称する。承平七年(九三七)真言宗に改宗した。
白山は石灰岩でできていたので、山全体が白く神々しくみえたことと思われます。おそらくは白山を神としてまつる古代からの信仰があり、仏教の広がりの中で神と仏を同じとみなす考え(神仏習合=しんぶつしゅうごう)によって神宮寺(じんぐうじ)を建てたのが来振寺のはじまりと思われます。昭和の初めまで山頂の来振神社で雨ごいが行われました。このとき神社の前で祈祷(きとう)を行ったのは来振寺の住職だったことは、神社と寺とのかかわりのなごりかもしれません。
のちに加賀白山を中心とする白山信仰がさかんになるに連れて、山の白さが尊ばれ、白山を遠くから仰ぎ見る(遙拝)ための山の一つとして位置づけられて「白山」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。
中世には、多くの僧兵を二百数十名有する大寺院だったと伝えられています。鎌倉時代の初めに、美濃国守護の梶原景時が祈願に訪れた。
この後、寺は不遇うに見舞われる享禄三年(一五三〇)根尾川の大洪水により寺領を流失、また永禄三年(一五六〇)には織田信長の兵火により七堂伽藍相貌を消失し、二百数十名の僧兵が離散する憂き目にあう。
しかし慶長・元和年間、豊臣秀吉・徳川家康の朱印状を受け寺領を得て再興。宝永六年(一七〇九)には、当山出身の儀山僧正が智山だい十二世管長就任にあたり、現本尊の十一面観音を当山に寄進、また各堂宇を中興した。
昭和四〇年(一九七二)大師堂、どう五六年(一九八一)本堂、同六〇年(一九八五)には山門をそれぞれ再建し、着々と境内を整備した。
寺宝の五大尊像(不動明王・降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・烏蒭沙摩明王の五幅)は、国指定重要文化財に指定されてから三十年を経た平成十六年(二〇〇四年に国宝に格上げとなった。
原図は奈良国立博物館に寄託しているため、毎年十一月に同寺大師堂内で御分身(複製の軸)が御開帳される。境内には榧(かや)・椿・銀杏の大木が多数自生する(町の天然記念物)。