義山僧正とは



義山僧正

大垣藩士で江戸詰の留守居役、濁子という蕉門俳人でもあった中川甚五兵衛守雄の実弟、義山僧正の影像である。

出生は正保三(1646)年、字は音識、伊予宇和島出身で鹿野氏という姓であった。

義山僧正には江戸から赤穂へ大垣藩の第三回目の使者として遣わされた御先弓足軽頭の鹿野治部右門守澄という兄もいた。中川甚五兵衛(長男)・鹿野治部右門守澄(次男)・義山僧正(三男)と共に、赤穂事件の時には大垣藩の為によく働いた三兄弟である。

義山僧正は二十一歳の時、来振寺の住職弘意法印に師事して出家得度。その後は赤穂の遠林寺住職・京都六波羅普門院住職と転住の後、真言宗の智山派総本山智積院の第十二世管長となった人物である。

来振寺本尊である十一面観音を当山に寄進した。享保七(1722)年七月四日に示寂。行年七十七歳であった。
来振寺寺伝によれば、大石蔵助良雄が山科に転居した時、それを世話したのは義山僧正で、大石は僧正の自宅の隣に寓居し多くの武将が祈願に訪れたと言われている。(多くの武将がお忍びで五大尊にあやかり、祈願護摩に訪れた。なお、五大尊の中心である不動明王が一番護摩と炎で汚れている)また元禄十五年、江戸下向の途中、来振寺へ大石が参詣し、討入の武具を赤穂から運ぶ途中、箱根の関所で検問された時には、中から義山僧正の書簡が出てきて、その書面に討入の苦労が切々と訴えられていたので、役人も感動して無事通過させたという話が伝わっている。